2020年11月19日木曜日

MartinとMnais yvonna (1)

 MartinとMnais yvonna 1/2 (Japanese only)

20126月のある夜、私はラオス仲間のToshi-Tyanさんから、フォンサバン南部とラベルされたカワトンボを手に入れたので、見てみるかいと連絡を受けた。フォンサバンならタイワンカワトンボか何かだろうと思い、不覚にもこの時は正直ほとんど期待していなかった。数日後、送られてきた箱を開けて、「あっと驚く為五郎!えっ、えっ gregoryi だ!本当にラオス産なの、中国のじゃね?」しかしラベルはフォンサバンの南東、5月下旬に採集としっかり記されていた。私はこれまでCalopteryx laosica と本種 Mnais gregoryi (ラオス産)を最大の目的種として、ラオス各地で調査を続けてきたが、両種とも全くその姿を見ることができないばかりか生息の僅かな痕跡も見出すことができなかった。今、目の前に正しくその正真正銘のgregoryiがあるのだ。興奮で脳梗塞を起こしそうになりながら、このToshi-Tyanさんからの思いもよらないカワトンボに見入った。しばらくすると、どうも、何か腑に落ちない。なんだろう?この不自然さは。と、変な思いが徐々に頭をもたげてきた。はて、待てよ。と、ある文献の写真が思い起こされた。確か朝比奈先生の、、、、。記憶をたどって、文献を探すとトンボ学会誌Tombo17(1974)に、あった!全く同じものが。

      写真1. パリ自然史博物館に保存されているラオス産カワトンボ Asahina (1974) より

このAsahina 論文は中国を主に、東南アジアをも含めたカワトンボ属の検討をMnais gregoryiの視点からおこなったもので、それまでこの地域で記載された数種のカワトンボの多くがgregoryiに整理されるとしたものである。この中にラオスから記録されたカワトンボ2種が含まれていて、そのうち1種が今回送られてきた標本と一致するのだ。朝比奈博士は1973年にヨーロッパ各地の博物館を訪ね、所蔵されているトンボ類の調査を行った。中でもパリの自然史博物館では、日本のトンボで馴染みの深いマルタン(Martin)のコレクションを調べ、その中にラオスから採集された2種類のカワトンボの標本を見いだした。博士はそれらの特徴を記録し、写真を撮って後にgregoryiとの比較を行った。

                                                                                                                                                      写真2 送られてきたフォンサバン南東で得られたMnais sp.                                         

                                                                                                        写真3 中國四川省産Mnais gregoryi

このマルタンコレクションの標本については少々ややこしくなってくるので少し触れておく必要があるだろう。先に示した写真1の標本はマルタンが新種として記載を考えていたらしく、朝比奈博士が写された写真にはタイプラベルとyvonna(以下この種名を便宜上使用する)という種名を記したラベルが写っている。しかし、実際にはなぜか記載はされていない(憶測だが、この時期はマルタンがフランスを離れる時期でもあり、記載の準備は整ったものの、投稿までは時間がなかったものと思われる。あるいは、片方の1種の方はincolorとして新種記載したが、この後、このyvonna を incolor(これは翅が透明)に対する単なる同種の黒バンド型と考え直したのではないだろうか)。この yvonna なるカワトンボは朝比奈博士の論文でgregoryi に含まれるものとして整理されている。このことが以来、ラオスにはgregoryi が分布しているという根拠となったようだ。

あらためて送られてきたカワトンボを四川省産のgregoryiと比べてみる。確かに印象はよく似ている (写真2,3)。しかし黒いバンドの大きさや、何よりgregoryiにみられるバンドから先端部にかけて広がる白いチョーク状の白濁バンドが、ラオス産にはない。さらに決定的なのは、尾部付属器やペニスが全く異なる。このことから両者は別種であるとするのが妥当だと思う。朝比奈博士が調べたパリの標本は残念ながら尾部が失われていて、比較しようがなかった。ラオスにgregoryiが分布することは、私見ではあるが今のところ否定されよう。これを踏まえてリストからは削除してある。

Martinが先に新種記載したincolorはこの送られてきたyvonna(実際には名無しの権兵衛なのだが、便宜上yvonnaの名を使います。私はincoloryvonnaは別種だとして、以下の文章を書いています。でも最近自信が無くなって、DNAの分析をお願いしました)と体形が良く似ていて共にがっちりしていて大きい。ラオスに広く分布する M. andersonimneme および tenuis などのオレンジ翅の型を持つグループとは明らかに異なる。yvonnaの採集地については単にLaosとラベルされているのみで、その詳細な採集地は現在まで分からなかった。その後得られることもなかったことから、今回、ほぼ1世紀ぶりにyvonnaと同一種が採集されたことになる。

さて、話変わってマルタンヤンマの名で有名なマルタンのトンボ学者としての評価は日本ではあまりかんばしくない。それは彼が記載した非常に多くのトンボは、その記載文にほとんど図が付いていないこと、また、記載の記述が大雑把すぎることなどが理由にあげられているようだ。はたしてそうだろうか?マルタンの記載はそんなにいい加減な代物だったのだろうか?

                   

                              Pene Martin (1846-1925)

彼は1907年にトンキン(北ベトナム)産のコヤマトンボの仲間、Macromia pyramidalisを記載しているが、 Lieftinckはパリの自然史博物館にそのタイプ標本が見当たらないため、pazzledと記していて、あまり信用していない節がある。しかし、マルタンの記載は、なるほど簡単に記述されていてはいるが、形態の特徴は要点を簡潔に記述してある。近年ラオス、ベトナムのトンボ相が次第に明らかになって多数のMacromia属が広く得られるようになり、本属に関する知見は飛躍的に増えた。そうした観点でタイ北部からラオス中、北部そしてベトナム北部に分布するMacromis 属を見てみると、マルタンの記載にあるような特徴を持つ種はpinnratani しか該当しないでのである。この種はラオス・ベトナム北部に割と普通に分布する。したがって1983年に朝比奈先生がタイ産の標本で新種記載したMpinnratani は先にマルタンが記載したpyramidalisそのものではないか、pinnratani はpyramidalisのシノニムだと強く思うようになった。パリの自然史博物館のマルタンコレクションが現在どのように管理されているかは分からない。かつて朝比奈先生は戦後間もなくヨーロッパに外遊した時(1954)、マルタンコレクションに当たり、そのコレクションについて、タイプ標本の印が無いものが多く、探すのは相当難儀すると述べていることから、Lieftickが訪れた時には見つけられなかったのかも知れない。タイプ標本の所在が明らかになれば、マルタンの新種記載が決していい加減なものでなかったことが証明されるだろう。

マルタンはSelys、Ris、Williamson、 Needham、 Tillyardなど蒼々たる初期のトンボ分類学者と親交が深く、特に、Selysが亡くなってから、RisForesterと共にSelysの膨大なコレクションのカタログを作成するにあたり、中心的な役割をはたしている。マルタンの業績は新種記載が主であり、それはSelysの初期の分類体系を踏襲していた。また、彼の研究は特定の地域に留まらず、アフリカ、中東、インドシナ、ニューギニア、オーストラリア、中米そして南アメリカにおけるトンボを対象として、生涯165種の新種および亜種を記載し、18の新属を設けた。今日ラオスやベトナムのトンボが明らかになるにつれ、むしろマルタンが果たした当時のトンボ研究を再評価すべきではないかと私は思う。彼は一流の採集家であり、多くのトンボに精通し、そして一流の研究者でもあったとみるべきではないだろうか。

最後に、1927年発行のEntomological News掲載のマルタンの追悼記事から彼の経歴を紹介し、この拙文(その1)を閉じたい。なおマルタンに関する貴重な文献をお送り頂いた、千葉県の故成瀬幹也氏、今回のラオス産カワトンボの調査の機会を与えて頂き、さらにM.gregoryiの標本を提供して頂いたToshi-Tyanさんに心からお礼申し上げる。

 マルタンの経歴

184665日フランス,ヴィエンヌ県(現イーゼル県)シャテルローに生まれる。

1866-1870年パリで法律を学ぶ。

1870-1871年プロシア・フランス戦争に従軍。

187110月結婚

1876-1907年パリ近郊のル・ブランに新居を構える(この間,新種記載やモノグラフの制作を精力的に行う)

18941月ベルギーのM.de Selys-Longchampsを訪問。初めてその膨大なコレクションに接する。以後親交を深める。

18976月所持していた銃の暴発で右指を失い,右腕に深い傷を負い,一時死にかける。

190011月最愛の妻が死去。

同年12 M.de Selys-Longchanpsの死に接し,深く悲しむ(この直後から.Selysが残した膨大な標本のカタログを作る案が浮上してRisがトンボ科,マルタンがエゾトンボ科とヤンマ科,Forsterがイトトンボ科を担当することになった)

19084月 パリに移り住む。

1914-182人の息子を大戦で失う。

1920年マルタン個人の大コレクションをパリ自然史博物館に寄贈したのち,チリのサンチアゴに嫁いだ娘を頼って,チリに渡る。

1925820日脳溢血によりサンチアゴとバルバライソの間にある小さな村ビラアレマナで死去。


このページは、ふくしまの虫30号 (2012) に掲載した内容を一部改変、加筆したものです。

 



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